須賀川市のみどころ
ハンドブック

すかがわ坂物語

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(1)北町坂
明治時代、県令・三島通庸によって整備された街道。近くに初代東京市長の後藤新平が青年時代通った福島医学校(現・公立岩瀬病院)があった。
 
(2)岩瀬の渡し坂
古くはこの坂を下りきった先に舟つき場や架け橋があった。さらにそれ以前は、下流の古代の道「東山道」中宿地内に「岩瀬の渡し」があった。
 
(3)館の坂(田村口)
二階堂家家臣守谷筑後守の舘があったことに由来する。古くは田村口、三春街道といわれた。
 
(4)座頭転ばし
舘の坂の途中から妙経寺の西側を通り中宿集落に続く坂。あまりの急勾配から「座頭ころばし」といわれた。
 
(5)御隠居岳の坂
須賀川生まれの明治時代の銅版画家・渡辺光徳も作品に残した須賀川八景の一つ「御隠居岳」の脇を通る急な坂。
 
(6)観音下がり(時雨塚の坂)
「須賀川三下がり」の一つ。江戸時代、坂の途中に観世音菩薩が祀られた「密蔵院」があったことからこの名がついた。旧境内には須賀川の俳人藤井晋流が松尾芭蕉を供養して建立した「時雨塚」が今も残る。
 
(7)多代女坂(庵坂)
旧市原家庭園をとおる坂。園内には文化文政年間に活躍した俳人市原多代女が結んだ「朝霞庵」や市原又次郎の「独笑庵」のほか、「心」の字を表した「峯巒の池」があった。
 
(8)庚申坂(鍋転がし坂)
古くは須賀川町内から浜尾に行く古道で、坂の中ごろに庚申塔が祀られていたことから庚申坂と呼ばれていた。かつて坂の上に鋳物屋があり、出来上がった鍋などを転がし出来具合を確かめたといわれることから、「鍋ころがし」という別称が広くつかわれている。
 
(9)新地の坂
明治から昭和初期まで、現在の須賀川商工会館がある場所から十日山にかけて三軒の遊郭があった。新地と呼ばれ多くの男女の思いが絡み合った場所であった。
 
(10)治部稲荷坂
治部稲荷神社には、戦国時代末期の須賀川領主、二階堂氏の一族で須賀川城代を務めた治部大輔が祀られている。坂を下った先の前田堤には桜の古木が立ち並ぶ。
 
(11)赤ハゲ山坂
みはらし橋から翠橋を通る坂道。途中にある五老山(通称赤ハゲ山)では二階堂家の壮大なレクイエム(鎮魂)の日本三大火祭り「松明あかし」が行われる。
 
(12)十三塚坂
西側の林には、須賀川領主であった二階堂家追善供養止めの十三の土盛りの塚があった。時の経過により現在は雑木に覆われ、場所も判然としない。
 
(13)暮谷沢の坂
町内から和田、浜尾に通じる古道。妙見山と五老山の狭間で昼なお暗い為この名がある。途中には鎌倉時代末期、政争による悲恋から自害を遂げた須賀川城代の娘「三千代姫」を供養するお堂やお不動様がある。
 
(14)十日山坂
馬の背の東端にあたる十日山脇の坂。十日山の名は十月十日の山の神の祭りに由来する。昔はこの山で松明あかしが行なわれた。
 
(15)荒町坂(十二軒坂)
江戸時代以前からの地名が「荒町」。当時戸数が十二軒あったことから「十二軒坂」ともいわれた。和田、前田川方面に行く道であった。
 
(16)鍋師橋坂
この地には江戸時代まで鋳物屋があった。梵鐘、半鐘、日用品の鍋、釜などがつくられていた。下の川(須賀川)に架かる橋がある。
 
(17)南の黒門坂
東北電力脇にあった南の黒門は、江戸時代に設けられた黒塗りの木戸。番小屋も置かれ、朝夕に開閉された。
 
(18)道場下がり(蓮池坂)
「須賀川三下がり」の一つで、近くにある「金徳寺」にあった念仏道場に由来する。坂の東にある「十念寺」の付近からは清水が湧き池をつくっていた。
 
(19)藤井下がり
江戸時代、須賀川屈指の豪商藤井家の屋敷が南側角にあったことからつけられた。「須賀川三下がり」の一つ。
 
(20)弘法壇坂(鹿の出口坂)
諏訪明神から西川地区に行く坂道。古くは「鹿(か)の出口」ともいわれた。江戸時代以前、近くには雨呼(あまよばり)口という場所があった。
 
(21)長禄寺坂
坂の途中に、須賀川城主・二階堂家の菩提寺長禄寺がある。境内には最後の女城主・大乗院阿南の方の五輪の供養塔、洋風銅版画家・亜欧堂田善の墓所もある。
 
(22)北の黒門坂
奥州街道須賀川の北の木戸は、古図によると坂道にあった。門が黒く塗られていたことから黒門といった。
 
(23)釈迦堂坂
須賀川駅と市街地をつなぐ坂。釈迦堂川に架けられた須賀川橋から緩やかな坂道が続く。
 
(24)新平坂
明治・大正時代に東京市長などの要職を歴任し多大な功績を残した後藤新平は、明治6年から9年までの4年間この坂を通り福島医学校(現公立岩瀬病院)に学んだ。

 

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須賀川観光協会